<まる見えリポート>専修寺、経ケ峰に彼岸日没 太陽の動きと山に関連

【手前の明合古墳から見た経ヶ峰山頂への日没=3月31日、津市安濃町田端上野で】

三重県津市一身田町の真宗高田派本山専修寺(せんじゅじ)の御影堂(みえいどう)と如来堂が昨年11月、建造物として県内初の国宝に指定された。大伽藍(がらん)に加え、実は立地場所も際立っている。太陽が真東から昇り真西に沈む春秋分には、ほぼ真西の経ケ峰山頂付近に太陽が沈み、西側直線上に並ぶ大型方墳「明合古墳」(同市安濃町田端上野)や東海最大級の祭祀場「六大A遺跡」(同市大里窪田町)と同じ景観を共有する。冬至は伊勢湾を隔てた神島からの日の出を仰ぐ。特別な場所と意識されていたようだ。

(松阪紀勢総局長・奥山隆也)

 明合古墳は五世紀、経ケ峰山頂の真東に築造された。一辺約60メートルで、方墳としては全国屈指の規模を誇る。対角線が東西南北を示す。

記者が今年の春分(3月21日)に同古墳から日没を観察したところ、山頂のやや南斜面に太陽が隠れ、3月31日になって頂上へ沈んだ。地球には地軸が約2万6千年かけてゆっくり一回転する歳差運動があり、現在の日の入り方位は古墳時代に比べわずかに南寄りになっている。

この裏付けとして、北條芳隆東海大学教授の「古墳の方位と太陽」(同成社)掲載の表によると、県が位置する北緯34度では2016年は500年に比べ約0・16度南方向に移っている。

六大A遺跡は専修寺の近くにあり、国道23号中勢バイパスの建設に伴う発掘で、古墳時代の礫敷のある長さ約百メートル、幅20―30メートル、深さ約3メートルの大溝を中心にした水辺の祭祀遺構が見つかった。飛鳥時代にも続き、都や明和町斎宮の斎宮跡など国家的な施設から出土する高級な蹄脚硯(ていきゃくけん)や、斎宮跡出土品に劣らない大型の土馬が出ている。

「日本の古代遺跡52三重」(保育社)では「東海地方で最大の祭祀場」「弥生後期から古代に至るまで連綿と祭祀が継続している特異な遺跡」「当時の人々に聖地としての意識があったのであろう」と評価されている。

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親鸞は13世紀に関東で布教し、15世紀になると門弟たち「高田門徒」の真彗が東海北陸へ進出して、一身田に建立した無量寿院が専修寺の前身となった。「日本歴史地名体系24三重県の地名」(平凡社)は「真彗が伊勢国に形成された教団の統括寺院として無量寿院をここに設置したのは、ここが交通上の要衝であったことに基づくと思われる。当時伊勢参宮がしだいに盛大となりつつあった」と推測している。

一方、同書は一身田の由来について、「伊勢神宮の斎王に対し一代を限って与えられた賜田」で、「歴代斎王に逐次与えられたことから、当地の地名として定着したと考えられる」と斎王との関係に触れている。

斎王が住んでいた斎宮跡から見ると冬至の日の出は真東から約30度南へ寄る伊勢市の朝熊ケ岳の山頂に輝く。また、松阪市宝塚町の宝塚古墳(5世紀)から望むと伊勢神宮内宮の地点に昇る。鳥羽市の神島と斎宮跡、宝塚古墳、松阪市の堀坂山はほぼ東西一直線に並ぶため、春秋分に斎宮跡や宝塚古墳にいると神島から朝日が昇り、夕日が堀坂山に沈む。

位置関係は岐阜県関市の元高校教員、尾関章氏(71)が昨年5月、論文「歴史のなかの伊勢神宮」(「いにしえの風」第13号)で発表し、内宮や斎宮の立地を考察した。いずれの場所も太陽の動きと山がつくる景観に関連させるとつながってくる。

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短くなる日照時間は冬至の翌日から再び長くなる。南山大学の後藤明教授は「天文の考古学」(同成社)で世界の古代遺跡と天体の関係を紹介し、「冬至は太陽がもっとも『弱る』ときであるので、多くの民族で生命の再生や祖先の復活儀礼が行われた」と説明している。

専修寺が伝える親鸞直筆の国宝「西方指南抄」の西方は西方浄土を指す。「仏説阿弥陀経」は、阿弥陀仏の国土は十万億土を去る西方にあり、阿弥陀仏は今もなお説法をしていると教える。彼岸の経ケ峰への日没と考え合わせてみたくなる。