光秀書状原本と結論 三重大・藤田教授ら調査 土橋重治宛て返書

【土橋重治宛光秀書状(美濃加茂市民ミュージアム所蔵)】

【津】三重大学の藤田達生教授は12日、美濃加茂市民ミュージアム(岐阜県美濃加茂市蜂屋町上蜂屋)が所蔵する「(天正10年)6月12日付土橋重治宛光秀書状」を調査し、戦国時代の武将明智光秀自筆の原本と結論付けたと公表した。この結果をふまえ藤田教授は、光秀が織田信長を自害へと追い詰めた本能寺の変(天正10年6月2日)の動機について、「将軍足利義昭の帰洛による室町幕府再興のためにクーデターをおこした」と提唱している。

書状は縦11.5㌢、横56.7㌢。藤田教授らが調査を実施し、記載内容や筆跡、料紙などから、光秀が紀伊雑賀(現和歌山市)の反信長勢力のリーダーだった重治へ宛てた自筆の手紙と結論付けた。
重治が光秀に援軍の派遣を申し出た書状への返書とみられ、重治が義昭の指示を受けて行動し、光秀もすでに上洛戦への協力を約束していたことが分かる内容。
書状には「6月12日光秀」とあり、当時の情報伝達の速度をふまえると、本能寺の変が起こる以前に義昭からのアプローチを受けていたと考えられるという。
本能寺の変の動機については諸説あるが、その一つに、信長の四国政策で窮地に追い込まれた土佐大名・長宗我部屋元親を救うために起こした「四国説」がある。
藤田教授は、光秀が変の時期には元主君・義昭との関係を復活させていたとし、天下を狙ったのではなく、義昭の帰洛による幕府再興を目指したとの見解を示している。